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遠山健太の運動子育て対談 アスリートに聞く好きなスポーツの見つけ方

【元スピードスケート選手 今井裕介さん-前編-】小4のとき夢中になったカルガリーオリンピック。それが将来の目標となった

子どもに好きなスポーツを見つけてあげたい。そう願う親御さんは多いでしょう。そこで、トップアスリートたちに、いつどんなきっかけでそのスポーツを始めたのか、親は何をしてくれたのかなどをリトルアスリートクラブ代表トレーナー遠山健太がインタビュー。
今回はスピードスケートの日本代表として3大会連続でオリンピックに出場した今井裕介さんの登場です。

ショートトラックからスピードスケートへ。自分に合う競技選択をしてきた

今井裕介さんは長野県生まれ。ショートトラック、スピードスケート
そして、競輪で活躍した元トップアスリートです。

小学生でスケートを始め、小学高学年から実業団のショートトラックのクラブチームに所属。
中学生で ショートトラックのナショナルチームに選ばれ、佐久長聖高校時代にはスピードスケート選手として、インターハイ制覇など輝かしい事績を残します。
山梨学院大学からはスピードスケートに専念し、1998年長野、2002年ソルトレークシティ、2008年トリノと3大会連続でオリンピックに出場。
ソルトレークシティオリンピックを目前にして、所属企業のスケート部の廃部が決まるという不運に見舞われ、その後、選手自らがマネジメントを手掛ける会社「チームディスポルテ」を設立。Nikonや大相撲高砂部屋など大手スポンサーを獲得するまでに。
引退時には「記憶にも 記録にも残らない選手」と自身を評しましたが、日本の中距離(1000m、1500m)の代表的なスケーターとして名を残しました。
現役引退後は競輪選手としても活躍し、2015年引退。
現在5歳の息子さんのお父さんです。

今井さんと遠山の出会いはトリノオリンピックの2年前。当時、国立スポーツ科学センターに勤務していた遠山は、スピードスケートチームのトレーニングサポートに携わり、主に、最も過酷と言われるサーキットトレーニングのアシスタントを担当。その際、少しでもモチベーション向上につながればという思いから、今井選手の好きなヒップホップを館内に大音量でかけたところからよく話すようになりました。

日本代表としてソルトレークオリンピックに出場したときの今井さん(22歳)
日本代表としてソルトレークオリンピックに出場したときの今井さん(22歳)

野球よりスケート。個人競技のほうが自分に合っていた

遠山:今井さんはスピードスケートの日本代表として3度のオリンピックを経験していますね。子どものころからスケートひと筋だったのですか?

今井さん:最初に始めたスポーツは野球でした。スケートはそのあとです、小学3年生から学校のスケートクラブで始めました。僕は長野県南佐久郡出身なので、スケート教室が授業であり、当時は田んぼを凍らせたリンクもあった。スケートが身近だったんです。でも、今は田んぼリンクもなくなってしまった。気候的なこともあるんでしょうけど、昔は親が熱心だったのだと思います。

遠山:野球は少年野球チームで?

今井さん:そうです。5年生まで野球をしていました。けれど、野球をやってみて、自分は団体競技が苦手だったとわかったんです。スケートの場合、練習はみんなでやりますが、競技になれば一人。自分の努力がストレートに結果に出る。そこが自分に合ったんです。好きになると、とことんのめり込むタイプなので、もう野球はやりたくなくなって辞めました。多くの子は、スケートは冬だけで、そのほかのシーズンは野球やサッカーをやっていましたけどね。

遠山:団体競技か個人競技か、子どもの性格によって向き、不向きはありますよね。スケートをやることに対して、親御さんの反応は?

今井さん:父親は自分がスケートで転んで股関節を悪くした経験があるので、子どもにスケートはやらせたくなかったようです。そのかわりに、スキーによく連れていってくれた。でも、僕は斜面がこわくて(笑)。故郷の佐久近辺のスキー場はたいていアイスバーンでしたから。スケートができるんだから、本気で向き合えば滑れたんでしょうけど、スキーにはハマらなかったんです。

スピードスケートの大会に出場した今井さん(先頭)。小学4年生のとき。
スピードスケートの大会に出場した今井さん(先頭)。小学4年生のとき。

小学4年生のとき見たカルガリーオリンピック。ここに出たいと強く思った

遠山:本気でスケートをしたいと思ったのはいつですか?

今井さん:小学4年生のときです。カルガリーオリンピックで黒岩彰さんがメダルを取ったときです。スケートを始めたばかりだったので、NHKの放送を全部録画して何回も何回も夢中で繰り返し見ましたね。細かな仕草まで全部覚えるくらいまで。そして、思ったんです。「カルガリーオリンピックに絶対出たい!」って。まだ子どもだったのでオリンピックのしくみがよくわかっていなくて、カルガリーオリンピックが定期的にあると思っていたんです(笑)。

遠山:ショートトラックのことを知ったのもそのときですか?

今井さん:そうです。公開競技にあって、獅子井英子さんが金メダルを取りました。その後、ショートトラックの実業団が野辺山の「帝産ロッヂ」(総合スポーツ合宿施設)にでき、それに伴ってクラブチームも誕生。そこに入部したんです。うちから1時間くらいのところです。

遠山:そこに入ろうと思ったきっかけは?

今井さん:軽井沢のリンクへ練習に行ったときに、「帝産」というジャンパーを着たコーチが、僕と同じくらいの子にマンツーマンで教えていたんです。「一対一で教えてくれるなんていいな、ここに入りたい」と思って調べました。当時、50人くらいのクラブ生がいて、みんな地元の子でした。そのとき教えてくれたコーチが、今の義理の父になる人(以下、コーチ)なんですが、それ以来、ずっと技術面を見てくれることになります。

帝産クラブでスピードスケートの練習に行ったとき(先頭)。小学5年生のころ。
帝産クラブでスピードスケートの練習に行ったとき(先頭)。小学5年生のころ。

着順勝負のショートトラックよりタイムレースのスピードスケートのほうが合っていた

遠山:その後、ショートトラックからスピードスケートに転向したのですよね。どんなきっかけがあったのでしょうか?

今井さん:ショートトラックでは中学3年生のときに初めてナショナルチームに選ばれました。すでに長野オリンピックの開催が決まっていて、自分としてはショートトラックとスピードスケートの両方で出場したいと思っていました。

遠山:二刀流ですね。

今井さん:今はそういう選手はたくさんいますけれど、当時はいなかった。コーチもそういう選手をつくりたいと思っていて、二人で目指していました。けれど、高校3年生のときにスピードスケートの大会に出て優勝し、今度はスピードスケートのナショナルチームに選ばれたんです。いざ、スピードスケートの世界に行ってみたら、めちゃくちゃ華々しくて(笑)。活躍したら、新聞の扱いも大きいですしね。しかも、そのときのナショナルチームの監督は、カルガリーオリンピックで見て憧れた黒岩彰さん。この環境は最高だと思ったんです。

ショートトラックでも優勝し始めていたんですけど、ショートトラックを最初からやっている人から見ると、僕はいつまでもスピードスケート出身者として別扱いになる。腰を悪くしたこともあって、スピードスケートのほうに切り替えたんです。

遠山:ショートトラックは個人よりリレーのイメージも強いですよね?

今井さん:そうですね。それにタイムレースではなく着順勝負なので、駆け引きがある。それも性格的に合わなかったんです。その点、スピードスケートは、積み重ねてきたトレーニングの成果を、大会で自分が100%出せれば結果はついてくる。そこが自分に合っていました。

スピードスケートでインターハイ優勝をしたとき(高校3年生)。
スピードスケートでインターハイ優勝をしたとき(高校3年生)。

スピードスケートでは体力要素が8割。そう思ってハードなトレーニングを課してきた

遠山:自分でトレーニングをしていたんですか?

今井さん:そうですね。テクニック的なことはずっとコーチにみてもらっていましたが、トレーニングのメニューを立てるのはずっと自分でした。

遠山:スケートのナショナルチームが国立スポーツ科学センターに合宿に来たとき、サーキットトレーニングのアシスタントに入りましたが、見ていられないほどのハードさでした。何人かはトイレに行ったまま帰ってこない。エネルギーをいかにはやく枯渇させるかが体力向上につながるので、最初から全力出すようにしていましたよね?

今井さん:そうです。スピードスケートの競技特性上、1回の練習で余力残さず全部力を出し切ることが重要なんです。

遠山:スピードスケートの場合、技術面よりも、体力をつけるトレーニングに重きをおいているんですか?

今井さん:自分では、体力が8割だと思っています。体力が十二分にあって余力があれば、やりたいことがしっかりでき、スピードも上がっていきます。体力がないと、すぐに脚に来てしまい、技術どころではなくなる。体力はトレーニングをすればするだけ上がっていくと思います。自分の中でそれができたと思えるのは、22歳から24歳の2年間。ソルトレークシティオリンピックの前です。そこからは、何か理由をつけて自分でリミットをつくってしまったような気がします。

結局、自分はオリンピックでメダルを取れなかったんですけど、その理由の一つとして、トレーニングパートナーとして他人を頼らなかったこともあるかなと思っています。他人の力を借りていれば、もっと深く追い込むことができたかもしれない、と。

オリンピックでは環境を整えることも重要だった

遠山:オリンピックというのは特別の雰囲気がありますよね?

今井さん:そうですね。今は違うと思いますが、当時は、大会直前になると、ナショナルチーム全体で頑張ろうというよりも、自分の所属チームの選手にいい成績をとらせたいという雰囲気になってきて、待遇に差がありました。僕みたいに一人でやっていると力がないので、与えられる環境も当然よくないわけです。

初めて出場した長野オリンピックのときは、20歳の大学生だったんですけど、選手村の宿舎では金メダルを期待されている清水宏保さんや堀井学さんと同室。それだけで、プレッシャーはかなりのものですから、メダルどころではないですよね(笑)。選手村にずっといて金メダルを取る人って本当のオリンピアンだなって思います。

遠山:戦うための環境は重要ですものね。

今井さん:はい。次のソルトレークシティオリンピックでは選手村から出て、「自分で環境を整えよう」と準備をしていました。当時、実業団に入っていたのですが、オリンピック開始1か月前に、そのスケート部の廃部が決まり、もうお金は出せないと言われて。それでも、「スポンサーを集めて乗りきろう」と思っていましたが、直前になると、いろんなことを考えてしまい、やはり駄目でした。

遠山:競技に集中できる環境ではなかったのですね。現在のオリンピックに出場する選手は恵まれていますよね。日本スポーツ振興センターが提供する施設があり、そこではスポーツ栄養士常駐で日本食が用意され、温泉バスタブや酸素カプセルで体を癒せるし、トレーニングルームもある。

今井さん:協賛してくれる会社も増えましたよね。すごく恵まれているなと思います。

遠山:トリノがラストレースで、その後、競輪選手になったんですよね?

今井さん:ええ。競輪はスピードスケート、ショートトラック、野球選手からの転向組が多いんです。比較的長くできるスポーツです。ただ、競輪にはショートトラックのように駆け引きが必要。そこが自分には向いていなかったんです。何せ全力疾走タイプですから。

長野オリンピックを目指していた大学1年生の頃。
長野オリンピックを目指していた大学1年生の頃。

厳しいトレーニングを積み重ね、大会で目指していたタイムが出る。それが楽しみだった

遠山:スピードスケートやショートトラックでは、小さいときからやっている選手が多いのでしょうか?

今井さん:僕の時代は、寒冷地では小さい頃から親しめるような環境が整っていたので、多かったと思いますが、今はそうではないみたいです。田んぼリンクもやりませんし。

遠山:中学生くらいから始めた選手は珍しいのでしょうか?

今井さん:そうでもないと思います。地域によっては、有望選手発掘プロジェクトといったものもあり、中学校まではバスケットボールなど違うスポーツをやっていたけれど、そこで才能を見出されて始める子もいます。

遠山:育成に関わったことは?

今井さん:あります。選手の育成は陸トレ中心で行うというのが僕の考えなので、フィジカル面を鍛える方法を教えたことはあります。選手の性格にもよりますが、なかには、東京にくれば強くなれる、○○コーチに教えてもらえば強くなれると思っている子もいる。それだと、いつまでたっても自分ごとにならないので、厳しい練習も積めないし、レースでの結果もついてこない。

遠山:人任せでは伸びていけないですよね。今井さんはスケートのどの部分を一番楽しいと思ってきましたか?

今井さん:日々、キツイことを積み重ねていって大会のスタートラインに立ち、目指していたタイムが出る。そこに楽しみを見出していました。勝つことが楽しみですね。

後編では、今井さんが5歳の息子さんに行っている運動子育てについてご紹介しますのでお楽しみに!

後編はこちら↓↓↓
【元スピードスケート選手 今井裕介さん-後編-】やりたいスポーツは親が示すのでなく、子ども自身が見つけるのを待つ!

今井さんから学ぶ
子どもにぴったりのスポーツを見つけるためのヒント

  1. 団体競技と個人競技。どっちが向いているか、両方を子どもの経験させ自分で選ばせるとよい
  2. 好きなスポーツがあれば、それをとことん見ることも大切。世界のトップアスリートが活躍するオリンピックは最高の舞台
  3. 体格や運動能力だけでなく、競技特性が子どもに合っているかもずっと続けていくのには重要
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